斎藤清美術館では、開館25周年を記念した「大コレクション展」を、2022年から1年をかけておこなっています。作品全体がおおまかに4つのテーマに分けられ、その中から更に3回の展示替えが行われます。つまり、毎月違う展示が見られる、という企画展なんです。
そしてもちろん、ここぞとばかりに通っております。
毎回それなりの感想を書き残してはいたのだけど、手帳に細々と書いていただけだったので、見直しもかねて、この場所に残しておこうと思い立ちました。シーズンごとにまとめて書こうと思います。
構成は以下のとおり。
- 展示タイトル名
- 印象的だった作品と制作年
- 思ったこと
第1期のテーマ【追求し続けた、構図と形(フォルム)】
(1)「究極の単純化」を求めて
凝視b 1956
凝視 猫 1948
凝視 猫 1986
これらの3作品は、ほとんど構図が変わらない。色彩も大雑把にいえば同じ。しかし作品が作られた年代は、30年も違っている。一見したところ同じようだけど、それでいて後に作られた作品の洗練された感じはなんだろう。刷りの技術によるものなのか。ランダムな背景の模様のひとつひとつにさえ、気が配られているような気すらする1986の作品。輪郭線がきれい。
(2)「もやもや線」の発見
ショップガール カルダン パリ 1960
尼僧 1962
ねこ 1973
椿 1945?
油絵→コラグラフ、という技法上の興味の変遷を感じることができた。コラグラフがどんなものかよくわからないながら、漆の技法でいう錆絵に似たところがあるのではないかと思っている。『椿』を見てみると、斎藤清が油絵の中に、「盛り上がり、造形されていく楽しさ」みたいなものを見出しているように思う。それがコラグラフに繋がっている。
60年代に没頭したコラグラフの作品群を見ていると、暗くてカオスなイメージが湧いてくる。その中に現れる無地の白(ショップガールの手や眼など)のとてもクリーンで、洗練された印象は、きっとコラグラフが作るおどろおどろしさとの対比が生むのだろう。
やがて素材感の強調は木目にも現れる。『ねこ』の木目感と無地の取り合わせは、黄色っぽい色味の統一感もあってかすごく好み。猫の悪い?表情もよい。
素材感というものが、色や形という要素と同列に語られるべきものだということを改めて気づかされた。
(3)そして、影が生まれた
目(3)(4)?
目(6)(7)?
会津の秋(B)1969
赤い実(A)1975
影→グラデーション。
晩年の斎藤清の作品に特徴的なグラデーション表現には、もとになる「影」の追求があった。技法的にコラグラフへ興味を強めていた60年代の作品には影の表現・テーマも多い。
50年代の裏磐梯の作品には、シンプルな色彩構成の印象を受けつつも、油絵風のこってりとしたインクの厚み、重みを感じさせる。この刷り面の、なんというか、ザラ感というのは、以降の作品に続く素材感(いわゆるマチエール)への関心の表れの初期なのかもしれない。そして、コラグラフを経て再び裏磐梯のモチーフ。そこでは素材感のさらなる試みと、影を持たせることで生まれる雰囲気(美術館の解説でよく出てくる「精神性」と呼ぶものだと思う)が表れていると思う。
これは常に思うことだが、50年代の作品の中には、以降の作品にはない荒さというか、粗雑さがあるように思えてしまうものがある。そしてそれはとても不思議だ。というのは、構図としてはシンプルである方が洗練されて見えそうなものなのに、そうではないからだ。晩年になるにつれ、作品はどんどん洗練されていく。しかし決して、構成要素がどんどん単純化され、シンプルになっていくわけではない。この「洗練」はどこからでてくるものなのだろう。
以上、第1期の感想でした。
初回を経て、観覧を進めるごとに感想がやたらと長くなっておりました。改めて読んでみると、自分で書いたことながら、自分の興味がどんなところにあるのか、ということがはっきりしてくるような気がします。僕は、斎藤清の作品の中に感じる「洗練」の秘密を知りたいようです…。毎回書いているとは思いませんでした。
作品の評価については自分が勝手に言っているだけのことなので、一般的な評価や他の方の意見なども聞ける機会があればいいなと思っていますが…。
ありがとうございました。